2023年2月28日火曜日

Keith Humphreys "Addiction: A Very Short Introduction" [依存症:非常に短い入門]

目次:1. 地勢を理解する 2.依存症の性質 3.依存症の原因 4.回復と治療 5.依存症への文化的・公共行政的接近 6.依存症の未来

まずaddictionを依存症(dependencies)と訳すのが正しくない気もするが、意味としてはそういうことで、主に薬物依存症の病状と予防・治療の概観。ギャンブル依存とかスマホ依存みたいなことは言及はされているが主な対象ではない。対象の薬物は主に酒たばこの他コカインやヘロインとかだが、違法薬物のリストなどは描写されない。本書にもあるように違法薬物による公衆衛生上の全損害を足しても合法薬物である酒たばこには到底及ばない。また刑事司法にもあまり触れられていない。著者の考えでは、この件はあくまで公衆衛生の問題であり、警察や道徳の問題ではない。ありがちな違法薬物のリストや裏社会の流通経路の描写もない。

依存症の問題となると、身近に依存症の人がいたり、飲酒運転の被害者がいたり、逆に大麻解禁論者がいたり、道徳や神の愛を説く人がいたりしてムダに感情的な議論になりがちだが、筆者は一つずつ丁寧に感情論を排除して"evidence"に基づいて実態を説明してく。その手際がほとんど哲学的と言っていいようなレベルで、内容そのものも素晴らしいが、文章はこういう風に書くものだと感心する。

内容については、多分、基本的なんだろうけど、わたし自身が依存症に縁がないこともあって、色々勉強になった。わたしの依存症についての知識は吾妻ひでおの「アル中病棟」くらいしかない。あれはあれで本書と合わせて万民が読むべきだが、ドラマ化の話は作者死亡で立ち消えになったと聞いている。わたしは酒もたばこも好きだが、金がかかるし健康に良くないのでどっちもやってない。コーヒーはこの本では全く相手にされていないが、普段大量に飲んでいても胃が悪くなれば何か月でも飲まないで過ごしたこともある。依存症に縁のない体質なんだろう。そんなわけで酒でもたばこでも依存症の人に冷たい目を向けがち(止めたらいいだけやん)だが、まあそんなことを言っていても公衆衛生は改善しない現実がある。本書にもあるように依存症に遺伝的要因があるのは事実だが、どんなに遺伝的要因があっても、ヘロインをやらなければヘロイン依存症になるわけがないのも事実で、とにかく特定の政策を支持したり精神論を叫ぶ前に現実を冷静に認識する必要がある。

著者は徹底的に現実的で、古い理論やいい加減な巷説を丁寧に排除して事実を描写していく。ただ厚生行政については明確に意見があり、例えば大麻解禁にははっきり反対だ。もちろん大麻を完全に合法化すれば大麻の生産販売消費に関する犯罪は定義上ゼロになるが、合法薬物である酒による公共への被害の大きさを考えれば答は明白であろう云々。経済にも目が届いていて、最後には一部の金持ちが大多数の貧乏人を依存症にして搾取するディストピアも描写している。実際のところ、豊かな国ほど薬物中毒が蔓延するのは事実で、薬物中毒が貧富の格差を拡大するのに寄与して、貧乏人に対する道徳的軽蔑が増すみたいなことは考えられる。そうでなくてもプロテスタントの国は貧乏人=道徳的に劣っているから貧乏という考え方をする人種は多い。

日本語でこういうテーマの本だと、ムダにセンチメンタルな感情ポルノだったり、逆にムダに裏社会感を強調する大人向けホラーだったりして、その意味では吾妻ひでおは冷静だと思うが、Oxford University Pressの安心感がある。そういえば、あんまり関係ないかもしれないが、メンヘルと呼ばれるライフスタイルを送る人の中に、やたら向精神薬を自慢気に見せびらかす人種がいるが、あれもなんか「かっこいい」という認識なんだろうな。文化も重要だ。色々考えてしまう本だった。

I love the way the way the author explains the basics of addiction. Very careful, well-balanced, evidence-based, and almost philosohical.

Oxford Univ Pr (2023/5/23)
言語:英語
ISBN-13:978-0199557233

2023年2月22日水曜日

Duncan Pritchard "Scepticism: A Very Short Introduction" [懐疑:非常に短い入門]

目次:1.懐疑とは何か 2.知識は不可能なのか 3.知識を弁護する 4.生き方としての懐疑

ものすごく丁寧に書かれた本だが脱落者多数という気のする本だ。最大の理由は普通に読んでいくと著者が何を目指して議論を進めているのか分からないことにある。もしかすると後から読んでいったほうがわかりやすいくらいかもしれない。

というわけで、最後の章から紹介すると、それまでの話からすると唐突にアリストテレスとかが出てきて、よりよく生きるためには適切な懐疑が必要であるとかいう話になる。つまり、この著者は良識的な知的謙虚さを擁護しようとしているのであり、特に最近目立ってきた反知性主義みたいな極端な懐疑論というか陰謀論や不可知論と戦うのがこの本の目的であり、ここまでの話は全てそれに向かっている。筆者が言うほど科学が信用できるかどうかという問題はあるが、それは枝葉に過ぎない。ただ、これが枝葉に過ぎないというのは最後まで読んだから判定できるので、筆者の科学への信頼の強さに引っかかって最初のうちに読むのを中断する人もいるだろう。

本書のそれまでの主要部分は、主にBIV(Brain in a vat)と呼ばれる極端な懐疑論、要するに「今わたしが経験しているのはすべて幻覚かもしれない」という仮説をめぐる話だ。ただ、著者は別にこの仮説自体を否定するわけではない。著者が否定したいのは「だからどんな知識も不可能である」という結論で、これも早めに言ってくれないとなあ…と思う。これをわかっていないと、何のために色々な細かい議論(しかもその細かい議論も一々引っかかるところが多い)を積み重ねているのかわかりにくい。著者は懐疑論を相互に矛盾する三つの命題のパラドックスにまとめて、解決策の例として三つの説を紹介する。それぞれ一長一短みたいなことだが、ここが本書のコアだとすると、特にこの話に大枠で合意しない人は少ないと思う。簡単に言うと①不可知論は常識に反する②知識の定義の仕方の問題③どこかに出発点となる「自明の真理」がないと懐疑すら不可能というところ。もちろん、著者はこの三つのうちの特定の立場を推しているわけでもない。

で、最後の章でアリストテレスが出てきて、極端な懐疑論は良い生き方に寄与しないとかいう議論が出てくるが、反発する人も多いだろう。結論がどんなに不毛で破滅的かは真理が真理であることと何も関係がない、という流儀もあり得る。言っていることとやっていることが違うというのが有効な反論かどうかも微妙な話だ。等々、わたしも今書いているだけで色々論点が出てきているようなことだが、実際に読んでいる最中は一ページごとに文句が出てきてしまう。本書はわりと懐疑論との対話みたいな感じで書かれているが、考えながら読むというより、いったん全部話を聞いてやるかみたいな態度で読んだほうがいいかもしれない。哲学としては初歩的な議論だと思うが、初心者は結構色々な論法を学べる気もする。

Written in defence of common sense, not for destroying our daily mundane world. If you excuse me, it's very British....

Oxford Univ Pr (2019/12/1)
言語 : 英語
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0198829164

2023年2月20日月曜日

Philip Moriarty "Nanotechnology: A Very Short Introduction" [ナノテクノロジー:非常に短い入門]

目次:1. NanoPutへようこそ 2.閉じ込められた量子 3.バラバラにすることと組み立てること 4.bitからitへ、itからbitへ 5.ナノマシン 6.ナノボットは近い?

最先端のナノテクノロジーの紹介。技術的詳細というよりは、今何ができるようになっているかの紹介がメインだ。最初のうちは原子を一つずつ目的の場所に置いていくようなことだが、この程度は序の口で、最終的には特定の化学結合や原子の特定の電子一個のスピンを操作するところまで行っている。「今そんなことできるようになってんの」みたいな驚きが圧倒的で、なんかその驚きだけで一冊読み終わってしまった感じだ。原子なんて粒子というよりほとんど波みたいなものだし、そんな物をつまんで好きな場所におけること自体が異常だが、既に解像度は原子以下のレベルに到達している。ただしどうやってそんなことができるのかの説明はほぼない。この本でわかるのは超真空とほぼ絶対零度の環境が必要なくらいだ。そういうことでは"Microscopy: A Very Short Introduction"が詳しい。ただ、7年前の出版だともしかするとこの分野の場合は既に昔かもしれない。

応用面では量子コンピュータを含む計算機と生物学にかなり紙幅を取って、最後はSFみたいな話になっている。この分野は一時期未来予測や人体への害で相当な論争があったらしく、著者の考えも述べられている。ただこの辺りは言っている意味は分かるが、背景に詳しくないとあまり議論が白熱する意味がわからないかもしれない。全体的にSFみたいな読後感だが、実際に実験室内では進行している話だし、近い将来日常生活に応用製品が出てくるかもしれない。それまではSFを読むのとそんなに気分は変わらない本かもしれない。

This is not a science fiction, though, I read it as such. It is still an in-lab technology. Someday, there will be abundant products of nanotechnology in our daily life.

Oxford Univ Pr (2023/2/23)
言語 ‏ : ‎ 英語
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0198841104

2023年2月18日土曜日

Chung-Leng Tran , Sébastien Racineux "Le café c'est pas sorcier" [コーヒーは難しくない]

コーヒーに関するよもやま話だが、豆・焙煎・挽き方・エスプレッソマシン等、飲むまでの工程も一通り解説されていて実用性もあり、基本的には消費者~喫茶店店員くらいが対象か。絵本みたいな体裁だが、中身もわりとしっかりしていて、日本語訳も出ているくらいで、変にプロっぽい教科書みたいなのを読むよりいいかもしれない。個人的にはペーパードリップもしっかり説明されていたのはうれしいが、アルコール系はもう少し欲しかったかもしれない。本当に極めたい人はこんな本を読んでいる場合ではないと思うが、単なる消費者なら、これくらい情報があればもう良いよとなるんじゃないかな。そのうちフランス語で珈琲の話をする機会があったら役に立ちそうだが、まあそんなこともないだろうか。

Bon. C'est pas sorcier. Cependent, je vais au starbucks.

Marabout(14 septembre 2016)
Langue ‏ : ‎ Français
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-2501103459

2023年2月17日金曜日

Edward T. Hall "The Hidden Dimension" [かくれた次元]

目次: 1.コミュニケーションとしての文化 2.動物における距離調整 3.動物における混雑と社会行動 4.空間の知覚:遠距離感覚器-目と耳と鼻 5.空間の知覚:近距離感覚器-肌と筋肉 6.視覚空間 7.知覚への導きとしての芸術 8.空間の言語 9.空間の人類学:組織化モデル 10.距離は人なり 11.異文化間文脈でのproxemics-ドイツ人とイギリス人とフランス人 12.異文化間文脈でのproxemics-日本とアラブ世界 13.都市と文化 14.proxemicsと人類の未来

"proxemics"という概念が提唱された本だが、翻訳が難しい。Wikipediaでは日本語で一応「近接学」という翻訳になっているが、多分中文の「空間行為学」のほうがマシだろう。簡単には、空間の知覚には人間の全感覚器が関与しており、しかも文化の差がかなり大きく、それを記述して解明していこうと試みる学問ということになるだろうか。著者は文化人類学者で、初版1966年ということで相当古いが、今でも主に建築学科の学生が読まされているらしい。確かに昔、近接心理学とかパーソナルスペースという概念をやたら語る人がいたのは、この本のせいだったんだろう。わりと生協の本屋とかでも原書も翻訳書も常に置いてあったし、昔から目には入っていたが、建築学にも文化人類学にもあまり興味がなく、タイトル的にも惹かれないので、ずっと手にしていなかった。

最近建築家の人がこの本に触れていたので、急に気になって読んでみたが、まあ確かに読んでよかった。最初のほうの動物の話はあまり興味がないが、特に日本庭園とか絵画における距離感の描き方の分析は勉強になった。日本庭園なんて、なんか無意味に気取った錦鯉を泳がせておく金持ち趣味くらいにしか思っていなかったが、本書によると、散歩して筋肉の動きなどで空間を感じるために設計され尽くされているらしい。画家の空間の描き方なんかも、言われてみればということが色々ある。この本を読んで、その場で自分のいる周りの空間を見渡すと、見え方が変わってくる。世界観が変わると言っても言い過ぎではないかもしれない…。

建築家の人は常にこういうことを考えているんだろうし、建築学の書棚にはこういう主題の本はほかにもいろいろあるのかもしれないけど、わたしとしては斬新な考察だった。やっぱり色々興味なさそうな分野の本も読んでみるものだ、という感想。

I do not know much about this field, namely "proxemics", architecture or cultural anthoropology, but I found this book is fascinating. Nobody can escape from influencies of proxemics.

Anchor(1990/10/1)
言語 : 英語
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0385084765

2023年2月14日火曜日

Timothy Williamson "Philosophical Method: A Very Short Introduction" [哲学的方法:非常に短い入門]

目次:1.導入 2.常識から始める 3.議論する 4.用語を明確にする 5.思考実験をする 6.理論を比較する 7.演繹する 8.哲学史を用いる 9.他の分野を用いる 10.模型構築する 11.結論:哲学の未来

目次から分かるように、哲学そのものと言うより、哲学の研究で使われる様々な方法の概要というか、実例込みの紹介というか。多分、哲学科に入ったばかりの学生相手の案内みたいな意図で書かれたのだと思うが、わたしとしては大家による愚痴混じりの業界雑談みたいに読める。これもVSIにはたまにあるパターンだが、久しぶりにこのパターンに出くわした気がしている。

というわけで、素人が興味本位で読むには、ちと哲学の内実自体が少なすぎるし、同僚の悪口が多すぎるんじゃないだろうか。例えば、縄文時代に興味を持った人は、普通に縄文時代に関する本を読むはずで、縄文時代の研究のために使われる様々な手段に関する本には最初は行かないと思うわけですよ…。だから、この本を読むのは哲学に興味を持ったばかりの人ではなく、多少は哲学に足を踏み入れて、これから自分で研究していくか…くらいの人だろう。あと、哲学は法学と同じくらい英米系と大陸系の区別があり、この本は完全に英米系で、大陸系から見れば自然科学や数学を異常に参照する。大陸系に親しんでいる人はかなり違和感があるはずだ。

まあこの本でなくてもVSIに優れた哲学本はたくさんある。記憶に残っているのはMetaphysicsとかLogicだが、この投稿の下のラベル:哲学を踏めばいくらでも出てくる。

One of the VSIs where a cranky old giant talks about his field and his collegues.

Oxford Univ Pr (2020/11/1)
言語:英語
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0198810001