2026年3月9日月曜日

Robert Chapman, Sue Fletcher-watson "Neurodiversity: A Very Short Introduction" [神経多様性:非常に短い入門]

Neurodiversity (Amazon.co.jp)

ニュロダイバージティ(神経多様性・脳の多様性)という社会運動に関する概説。この本は、わたしが生涯に読んだ本の中でも屈指の衝撃だった。正直言うと、ちょっと戦闘的過ぎてついていけないところもあるが、大枠では賛同している。ちょっと真面目に紹介したい。

内容

かなり省略してわたしが最重要と思うことだけ簡単に紹介する。

1: 神経多様性の導入

ASDやADHDなどがそもそも医学的根拠のある「病気」あるいは「障害」なのかが疑われる。そもそも多様な人がいるのが当たり前で、特定の社会状況で「正常」とされる範囲から外れた人間が「障害者」と認定されているだけである。コミュニケーションの仕方が「普通」とされるレンジから外れている人たちをASDとして障害者認定したところで、その「障害者」たちに共通の遺伝子や脳の構造や「病因」は見つからない。これは「標準的な人間」の規格を設定したことによる政治問題であって医学の問題ではない。この点は後でわたしの言葉でわかりやすく説明したい。パラダイム転換が必要である。重要なのは規格化に対抗して多様性を肯定し、政治問題を認識することだ。

2: 民主的な理論と研究としての神経多様性

たとえば、バリアフリーが完全で車椅子でしか移動できない程度では障害認定されない社会は想像できる。障害は個人の医学的問題というより社会の問題であり、障害者は抑圧されたマイノリティである。健康であることと「標準的」であることは関係がない。現在ASDの診断は医者が独占して、ある人が「標準とされる範囲に収まるかどうか」を判定して、収まっていない人を病人または障害者扱いしている。これは民主的な状況とは言えない。

3: 神経多様性パラダイムの適用

学校や職場などでの、わたしから見ると夢のような改革が並べられる。現実になる日が来るとは信じられないが…。ここは何か所か文章を翻訳引用する。
神経多様の人々を排除または害する職業生活の一面として、多くの仕事に付随する社会的期待がある。これはサービス産業で働く人々に必要な感情労働から、休憩室での世間話、仕事終わりの飲み会や同僚の誕生日などを含む。(Applications in the workplace)

自閉症の人は感覚処理の問題からアイコンタクトを避けるが、これが不正直の兆候と誤って解釈されるかもしれない。( Neurodiversity in the criminal justice system)

 性的労働が犯罪とされるべきかは全く明らかではない。それによって性的労働者が犯罪者とされるだけでなく、彼らが労働者の権利にアクセスすることが困難になるためだ。(Neurodiversity in the criminal justice system)

4: 集団的解放としての神経多様性

一般的な人権問題のみならず、世界システムとの関係が問題になる。この類の話で必ず出て来るジェンダー問題をリンクするのは避けられないのだろう。さらに人種問題、脱植民地化、反資本主義…ちょっと戦線を拡大し過ぎではないか。

5: 現在の議論

ここはさらに小見出しを翻訳しておく。「神経多様性と学習障害」「Nerodiversity-lite(表面的な神経多様性運動の模倣)」「神経多様性と反精神医学」「アイデンティティの政治」「自認の出現」「神経多様性に配慮した変化の方法としての共同生産」ここでわたしにとって衝撃的だったのは、R. D. Laingに対して結構な言及があったことだ。もちろん、NeurodiversityとR. D. Laingに直接的な関係はないが、精神障害を個人の医学的な問題ではなく、社会的な問題であると理解した点では決定的に一致している。

たとえ話

この本を読んでいて考えたことである。50mを10秒で走れないと日常生活が著しく不便な社会を想像する。この社会では、50mを10秒で走れない人間を「鈍足障害」と診断し、様々な治療法や投薬が試みられる。実際、投薬は一定の成果を上げる。特に「鈍足障害」と併発しがちな抑うつには効くだろう。どうにもならない場合は障害者手帳が配られる。また鈍足障害者に共通の遺伝子や脳の構造やその他の病因が調査される。

この社会は二重に間違っている。第一に50mを10秒で走れないと不便な社会が間違っている。多分道路交通法や建築基準法が間違っているのだろう。走るのが遅い人間に不利な社会は正義の見地から間違っている。

第二に、走るのが遅い人間を一括して考えるのが間違っている。走るのが遅い原因は無数にあり、有意味な研究をするには原因ごとにさらに分類を細かくしなければならない。その結果、例えば「その遺伝子があっても速い人もいますが」みたいな結果しか出ない。そもそも走るのが遅いのは単一の病気ではないのだから当たり前だ。つまり、この話は科学的あるいは統計学的にも間違っている。

ASDも結局同じことではないだろうか。ASD者は医学的に単一のグループではない。分類を細かくしても同じことだ。そもそもASDと判定する基準が、医学ではなく特定の社会の要請である。もしかすると資本主義経済でなければ障害ではないのかもしれない。アメリカでは日本より遥かに簡単に障害認定されるかもしれない。

個人的な話

R. D. Laingはほぼ全著作を読んでいる。昔からわたしはこういうのが、個人の問題ではなくて個人間=社会の問題であると強く感じていたらしい。哲学方面でもわたしの一貫した傾向だ。

わたし自身はASDの強い自認がある。実は診断を受けようかと思ったこともあるが、負担も大きいし、この本を読んで今こそ受ける気がなくなった。

そして、わたしは来月から無職になる。FIREだが、要するにASDにとって最も厳しい学校・職業生活からとうとう脱出したわけだ。実のところFIREというのはASDの所業なのではないか。この本に限らず、ASD本に書いてある実体験の類には常に強い共感を持っている。

この本については、ちょっと戦闘的過ぎるところがあって引いてしまった部分もある。Basic Income導入とか、自閉症を認定したのはナチが最初だとか、戦線を拡大しすぎなのと、扇動的過ぎる部分もある。しかし、大枠においては非常識な話ではない。LGBTQの話とリンクしがちなのは昔から違和感があるが、要は多様性の尊重=標準/病気化への抵抗ということで連帯するべきというか、パラレルということなんだろう。

まだ出版されたばかりというか、発売日が未来になっているが、既にどこかで翻訳出版の準備が進んでいるだろうか。わたしで良ければやりますが…。

出版社 ‏ : ‎ Oxford Univ Pr
発売日 ‏ : ‎ 2026/5/26
言語 ‏ : ‎ 英語
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-0198876519