出版側は思想小説みたく言ってほしいのだろうけど、奇書と言っていいだろう。この小説、定期的に日本でも話題になる。聖書に次いでアメリカ人に影響を与えたとか、アメリカの保守の真髄とか、頭のいいアメリカ人は全員読んでいるとか…。
詳しい内容はWikipediaにでも何にでも出ているが、大雑把に言うと、無能な怠け者共の提唱する社会主義のせいで合衆国が滅んでいき、優秀な実業家たちがロッキー山脈のどこかにあるユートピアに逃げていくという話。実際には、この要約から想像するより内容ははるかに酷い。とにかく無能な人間や慈善事業や労働組合などは絶対悪であり、有能な実業家は絶対善であり、富や贅沢はその証拠である。利己主義こそ絶対善であり、ヒーローの側は少しでも利他主義的と思われる行動をするのを極度に恐れていて、むしろ利己主義だけでは生きていけないのを認めたほうが楽なのではという。
登場人物や地の文で延々とそんな思想が語られていて、確かに部分ごとに共感を呼ぶところもあるのだろう。特に自分を有能だと思っている人間には。こんな人にお勧め:
- 頭の悪い他人に合わせるのを強要されてやる気をなくしている(特に子供の頃はありがちですね)。
- 革新的なアイデアを怠惰で無能な上司や同僚に潰される(多少真面目に働いたことのある人なら何度も経験があるでしょう)。
- 生活が苦しいと言いさえすれば金をもらう権利があると思っている怠け者を軽蔑している(実際そんな人いっぱいいるし)。
- 罪責感で子供をコントロールしようとする家族に殺意を覚えている(毒親とかね)。
- 有名人を妬む大衆にうんざりしている(批判ばかりしている祖国を見限った日本の王女がアメリカに来ましたね)。
ちと関係のない話をするが、最近「ホームレスを殺せ」とかいうYouTuberが炎上して別のYouTuberが「言いかたは悪かったけどみんなの本音では」みたいな擁護をしていた。「じゃあお前が金を出してホームレスの人を助けろよ」論法は議論では負けないんだろう。個人では上手くいかないから政府があるんですがね…。敢えて「普通の人」の弁護をすると、普通の人はホームレスに金を払わないが、納めた税金の一部分がホームレスの救済に使われるのに反対はしない。自分の家の前にホームレスが寝ていたら追い払うが、遠くの河原に寝ているホームレスに石を投げたりはしない。結局のところ、色んな矛盾する利害関係や感情や理念のせめぎあいの均衡点が現在の状況である。「お前が個人的に助けろ」と「殺せ」の二択ではない。この現在の均衡点をもっと非情側に移動せよという話は分からなくはない。しかし「殺せ」は明確に頭がおかしい。
なぜそこそこ頭の良い人がこういう明確に頭がおかしいことを言うようになるのかというと、簡単な話で「議論に負けないから」に過ぎない。ではそもそも頭が良いというのが間違いだったということになるが、だいたい世間では議論に勝つ人を頭が良いと言うのでこういうことになるわけだ。極端な意見は論理的に一貫するから頭が悪くても守備が簡単で、後は相手の一貫していない部分の攻撃だけしていれば良い。
この小説でも利己主義が絶対善で利他主義や慈善は絶対悪という思想を提唱しているが、残念ながらこの本は哲学書ではなく小説なので、完全に利己主義を貫徹しようとすると、思想は首尾一貫するがその分だけ現実に適用するのに無理が生じる。で、一々登場人物が「これは利他主義ではなくこれこれの理由で利己的な行動で」と言い訳しないといけなくなる。特に、この小説には子供が全く出てこないが、出てきていたらもっと無茶苦茶になるだろう。
しかし、一々こんな初歩的な話をしていてもキリがない。思想がどうこういう点については、この本に影響を受けたとか言っている人間は基本的に信用できないというだけで十分だ。この小説の問題点は他に二つある。一つは、ヒーロー側には科学力があることになっているが、謎の分子構造を持つ金属とか未知の周波数の電波とか静電気を動力にするとか、とにかくアホ過ぎる。この著者の思想では科学技術が非常に重視されているが、著者自身がこれでは説得力がないだろう。
もう一つのほうは深刻で、主人公は女副社長だが、他の登場人物はほぼ男だ。で、この副社長が同じ思想を持つヒーロー側の男とやたらセックスをする。さらにその男同士が彼女を巡って嫉妬、というだけでなく、男同士で同性愛がにおわされていて、ハーレクイン小説と言うとハーレクインに失礼かもしれない。本人の見解では有能で高尚な思想を持つ男に欲情するのは当然であって、それを理由に不倫相手の家族とかが罪責感とかを負わせようとするのは見下げ果てたものだということらしい。思想は別にしても、個人的に生理的にかなりキモい。
別にネタバレしてもいいと思うが、最後は普通に主人公が人を撃ち殺したりしているし(無能な人間には生存権がないので問題ない)、ちょっとこの本を賞賛している人が何を考えているのか理解できない。長い小説だが、世の中にはこんな本もあるんだということで。わたしはヒマなので読んだが、ちと長すぎる。
A long crazy novel.
NAL (2007/2/1)
言語:英語
ISBN-13 : 978-0141188935