これは夢中で一気に読んだ。単純に読んでいて面白いのもあるが、実際、解釈学の概観としてこれが至上の基本書ではないだろうか。ただ、Que sais-jeのわりにガチの哲学書なんで、普段ハイデガーやデリダの言い草に馴染んでいないと何を言っているのか分からない可能性が高い。哲学科の学生は挑戦するべきだが、初心者にはお勧めできない。
もう少し簡単なのをということなら、Oxford Very Short Introductionにも"hermeneutics"というタイトルがあり、少しめくっただけでしっかり読んではいないが、多分あっちのほうが初心者向きだろう。
まず解釈学とは何かという話だが、古典的な意味では単に修辞学の逆である。伝えたい意図を言葉にする技術が修辞であり、言葉を解釈して著者が伝えたい意味を再構成する技術が解釈である。伝統的には聖書の解釈が大きな分野だが、法律の文章の解釈は今でも日常的に問題になっているし、昔の文学の解釈はそれだけで専門分野だし、学校の国語の授業でもそういうことを教えている。
次の段階として、19世紀になって「人文科学も自然科学のように客観的真理を得なければならない」という風潮が強烈だった時期があり、その時代には、人文科学の方法論として解釈学が議論されていた。この場合は、今で言う文学部の全分野、つまり文学も哲学も歴史学も社会学も、なんでもかんでも解釈学を使用することになる。解釈学が整備されれば人文科学も自然科学並みに客観的真理が得られると本気で信じられていたらしい。
第三段階として、本書でも頻繁に引用されるニーチェの「事実なぞ存在しない。解釈のみが存在する」みたいな話が出てくる。「時代の制約やイデオロギーや先入見を排除した完全に客観的な解釈は不可能」というくらいなら多分誰も反対しないと思うが、ここからどんどん話が過激になっていき、解釈のほうが事実に先行するみたいなニュアンスになっていく。もはや解釈学の対象は人文科学や社会科学だけでなく、自然科学も所詮社会的構成物なので解釈次第みたいなことになる。その究極が本書冒頭のソーカル事件みたいなことだろう。
本書の大半は第三段階の議論を巡っている。解釈抜きの生の事実なんか存在しないとか、人間は自らの目的に沿ってしか世界を解釈できないとか、そもそも解釈とは自分の先入見の破壊作業でしかないとか、誘惑的な過激な主張が色々出てくる。名前で言えば、ハイデガー・ガダマー・ハーバーマス・リクール・デリダなどが本書の主役だ。著者自身の立場は、事実は解釈による構成物に過ぎない的な虚無主義は避けているし、所詮我々は認識の枠組みの外に出られないとかいう悲観論も避けている。
そんなわけで、わたしの見るところでは、第三段階は古典的な事実vs解釈の関係を疑うのと解釈の前提になる構造(先入見・イデオロギー・パラダイム・実存…)を重視するのが大きな特徴だが、著者の視点がわりと穏当というか多分ガダマーに忠実なので安心感がある。個人的には「理解するというのは他人を自分の理解体系に組み込んで支配することなんじゃないんですか? 対話によって理解するなんて怖いんですけど」みたいなデリダ的言い草に馴染んでしまっており、それそれで生理的実感みたいなものだが、それ自体も解釈でしかない。…思考は永遠に続く。久しぶりに良い哲学書を読んだ。
C'est le meilleur livre sur l'herméneutique que j'ai lu.
QUE SAIS JE; 5e édition (11 mai 2022)
Langue : Français
ISBN-13 : 978-2715411128